屈折する星屑エセー

世はさだめなきこそ いみじけれ

モノを捨てたい欲求

モノは何であるのだろう。

消費財としてのモノ、資産としてのモノ、思い出の品としてのモノ。

いろんな価値の付いたモノだが、筆者は全部捨ててしまいたい。

たまにやってくる携帯の連絡先全部消したい衝動。

全て真っさらにしてしまいたいという欲求。

生まれ変われるはずもないのだがそれに近しいものがある。

 

今は賃貸アパートで暮らしており部屋も少なく広くはないため、限られた言うなれば選りすぐりの精鋭たちしかモノとして存在していない。

これまで溜めに溜めたモノたち。

一生モノ!

という理由で我が家にやってきたモノたち。部屋にあるモノたちはひとまず考えないことにして問題は今の部屋に置けなかったモノ。

彼らは実家でホコリにまみれて再びスポットライトを浴びるのを待っている。そう、彼らも一生モノとしてやってきたのに関わらず一年以上手にとってもらえないという不遇を味わっているのだ。

筆者に所属する本雑誌レコードCD雑貨ゲームその他諸々。

これだけのモノを集めたのだがそれぞれがモノとして機能していない。では今後手に取ることがあるのだろうかと自問してみると今年一年触らなかったモノにその先の一年も触れることがないであろう。

形見などの人の思いがこもったモノであればそれが存在理由となるのだろうが、一生モノとしてやってきたモノたちは留まっている説得力に欠ける。既に一生モノの扱いを受けていないのだから。

 

処分するタイミングとしては数ヶ月後に新居が完成する予定である。

マイホームの引越しをきっかけに断捨離をする人も多いと聞く。筆者もならってみようかと思う。

まず実家にある私のモノたちを全て処分したい。

 

離れて暮らしていても、そう空間を違えていても実家にある筆者のモノたちから筆者が捕らえられている気持ちがするのだ。見えない糸で全身が絡め取られている感覚。

実際に春にはそれが感覚的なものではなくなり実体を伴って筆者に迫ってくる。

軽自動車税として。

乗っていない単車の税金の払込用紙が役場から届く。役場の仲介をもってモノは筆者とのつながりを求めてくるのだ。まぁナンバーを外せよとなるのだが。

これは例であるが、単純所有に税金がかからなくとも似た感覚を覚えてしまう。

モノたちにとっては筆者の一部になりたいとは微塵も思っていなくて、本当はその逆。筆者がそのモノたちをモノにしたいと考えているのだ。

 

もうその所有の時代は終わりだと思う。

NETFLIXやapple musicなどのサブスクリプションが席捲している現代、所有の意味は消えつつある。

 

そのしがらみを捨てるためにも今度実家に帰省したら一生モノの中から一生モノを選ぶ作業を行おうと思う。実家には自分のモノは残さない。

大量に処分(捨てる売る寄付)しようと考えている。選抜メンバーは新居に来てもらおう。

 

ということを口にしたら妻に

これ以上捨てたら新しい家の中何にもなくなるから捨てんどき!!

と言われてしまった。

 

部屋の広さとモノのバランス、関係性は本当に難しいと思う一日であった。

 

結論として妻からは

早まるな!!レコードは捨てるな!!!

とのお達しである。

筆者と音楽のセンスは全然違うのになぜ生かしておくのか。

それはレコードまで捨ててしまうと部屋が寂しすぎるという理由にあるのだ。

 

コレクトするという行為は楽しいがその後の扱いが非常に難しい。

じっくり一生モノというものを吟味していきたいと思う。

 

以上、とりとめのない話にお付き合いいただきありがとうございました。